<その1からつづき>

次に、魂は自然を生み出すとした。ト・ヘンの一部を魂が
解釈することによって生まれるもの、それが自然。

魂は観照を本領とする。目の前のものを受け取って、考える
ものが魂。であるから、ほかの魂などを観照し、解釈する。
この結果できるのが「自然」であるという。

ちなみに、人間の思惟の本性とはいったけど、この時点では
人格とかそういうものは生まれていない。いわば、世界全体が
思惟であり魂であり、その観照の結果がこの世界なのである
という表現。

そして、その観照に使われるものもまた思惟(ヌース、イデア)に
含まれていなければならない。魂は、ヌースと照らし合わせる
ことによっておのれの観照能力を発揮する。魂が内に描く
感性界(魂が感じている世界?)が、この宇宙を含む世界そのもの
である。

なんだか頭がくらくらしてくるが、もう少しつづけます。

われわれの思惟がわれわれを管理しているのと同様に、世界も
その世界の思惟によって、おのれを管理してる。ト・ヘンから
一番はじめに生まれた思惟、世界霊魂と呼ばれるものが、まず
世界身体というものとくっつき、この世界が誕生した。さらに
ト・ヘンから離れると細分化し、地球も太陽も宇宙のすべてが、
こうして出来ている。

このあたりで、魂が観照することによって自然が生まれ、それと
質料がむすびつく…と言っているが、いつ質料が生まれたのか
よく分からない(;´д`)

もう少し魂が下降すると、それらが人間とか動物のかたちをとる。
世界の事物の次に生物がきて、その後に、魂のない質料がくる。
こういう、世界版カースト制というか、そんな感じの世界が
築かれる。

共感が可能なのは、魂においてはもともと同一であるからだと
いう。このあたりの説明のためにも、上のような世界観が必要だった
のだろう。

また、質料は完全にト・ヘンから与えられた完全性を失っており
これはすべての悪の根源だとされる。

さて人間の身体は、では何であるかといえば、これは物体である
から、質料である。人間がなぜ悪の側面をもち、苦悩するのか?
それは、純粋なる魂が、悪なる身体と交わっているからなのだ。

お、かなりイデア説と重なってきたね。

ではこんな世界、人間は何を目指して生きるべきなのか?
それは、さきのト・ヘンからの道を逆行し、生きながらにして
神というか、ト・ヘンとの合一を果たすことだというのである。
これがすべての哲学的努力の目標であると。

欲望は身体と交わっているがゆえの悪。純粋な思惟にのみ、
魂をゆだねることによって、質料から魂へ、魂から思惟へ、
思惟からト・ヘンへさかのぼれるとプロティノスは考えた
らしい。

そのためには、全てを捨てなければならない。肉体を捨てるには
すべての肉体的欲望を捨てなければならない。さらに魂を捨てて
思惟(知性、ヌース、イデア)そのものにならなければならない。
思惟においては自他の区別しか存在しないのであって、時間も
場所の概念も感じなくなる。さらにト・ヘンとの合一を果たしたら
どうなるか。そこにはもう、一切のものがあるのであって、また
一切のものを感じなくなるのだという。なにせ、自分を意識しない
のだから。そこではすべてを忘却し、思考も言語も失って恍惚の
もとに、光に満たされる、いや光そのものになるのだという。

仏教の無我の境地の影響もあるのかなぁなんて思うが、しかし
ニュアンスは大分違う。仏教のそれは主にアタラクシアを指すので
あって、こうした神秘主義にその思想の要はない。と思う。

また驚くべきことに、プロティノス本人は、この経験が何度かある
らしい。ここまでくるとまさにアレである。神秘主義的色彩の
強い哲学、仏教とキリスト教のあいのこぐらいの思想だろうか。

ともあれ、これがギリシャ哲学最後の大きな思想であった。

 
さてさて、長かったですが、ようやくギリシャ哲学はこれで
おしまい。次からは、中世哲学最初のビッグネーム、アウグスティヌスに
いきます。

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