しかしアレですね、哲学やってると、はしばしにゼノ○アスと
ゼノサ○ガのキーワードがでてきますね。

人名だとラカン、バルトとか。あとイド、善悪の彼岸、
力への意志、寄る辺なき人々、とかとか…

新プラトン主義のほかにも、新ピタゴラス主義、グノーシス主義
とかがあるんだけど、このグノーシスってのも、アレですね。
まあいいですね、この話は。

哲学史では後ふたつは全然扱ってないので、ここでも割愛します。
なんでもグノーシス主義の代表はマンダ教とかマニ教だとか…
ほとんど宗教みたいなもので、まあ哲学と宗教の境目ってあいまいな
ところもあるけど、基本的に宗教的教義(ドグマ)とは無縁であるべき
哲学にとってそう重要でもない学派だろうとは思います。

 
さて新プラトン主義。

前述の、ヘレニズム時代に入った頃の学派である、ストア派、
エピクロス派、懐疑派が、総じて、人間個人がおのれの精神の内
のみに心の平静を求めるべきとし、個人の心の中に閉じこもる
哲学だったのに対して、ローマ帝政期の哲学は、うって変わって
神秘主義の傾向が見られるとされる。宗教的な絶対者との合体を
目指すような、そういう哲学であったそうだ。

はじめての哲学史では、人間は、個人だけでは生きていけない
弱々しいものであると自分を自覚したとき、外界にある絶対的な
ものへの希求が高まってくる。と表現している。また、プラトンの
求めた、人間の善への希求をもう一度考え直すことで、ギリシャ
哲学の大事な思想が、中世に受け継がれていくことになる、とも
書いている。

昭和堂の哲学史によれば、この新プラトン主義が、ギリシャ哲学の
最後の姿であるそうだ。そのことの表現がこんな感じ。

「このギリシア末期の宗教的情念の噴出という現象は、活力も
衰え、世間から身を引いて静かな隠居生活に余生を過ごしていた
老人が、その生の最後の瞬間になって突然宗教的情熱に駆られて、
念仏三昧にふける姿に似ている」

「それは切れる直前の電球の一瞬の輝きに似ている」

ギリシャ哲学は、今ではもう命脈途切れたものである、という
見方がなんとなく伝わってくる。ちなみに竹田さんによれば
哲学の精神は、キリスト教とギリシャ哲学の折衷作業であった
中世哲学においてすら、しっかりと繋がっていたと見ている。
それが近代、現代哲学に手渡されたからこその今であると。

このあたりは、哲学研究者の見解の相違であって、俺がどうのと
口をはさめるところではないけど、個人的に好きなのはやっぱり
竹田さんの見方。

で、新プラトン主義について具体的に見ていこう。

新プラトン主義の創始者はプロティノス(A.D.204〜A.D.270頃)。
紀元後ですから、だいぶ年月がたってますね。

新プラトン主義といっても、プラトンの焼き直しではなくて、
モチーフを採用しているといった感じかなあと個人的には思う。
なにしろ、プラトンの想定した英知界の、さらに上のものを想定
しているから。

プロティノスは、この世のものに区別があるが、それが様々な
区別を包括することについて考えた。長方形と正方形はまとめて
「四角形」であるし、三角形とあわせて「図形」である。
ほかのものを包括しうるものほど単純で根源的であると考え、
その究極的な根源には、一切の区別がない一者(ト・ヘン)が
あるとした。英知界ではイデアの区別があるから、そのさらに
上があると考えたわけである。

このト・ヘンがやっかいな考え方で、なにしろ、ト・ヘンにおいては
区別が一切ない。自我と他我はもちろん存在しないから、神みたいに
人格性があるわけでもない。思惟する(考える)ものでもない。
考えた瞬間に、考える対象が存在することになるからだ。
時間にも場所にも規定されない。いつある、どこにあるなどという
ことは区別であるから、そんなことにはとらわれない。
実体ではないし、量も質もない。生命も意志も考えられない。
形はない。形相もないしイデアもない。

また「なにものかである」「これこれである」と言った瞬間に、それを
相対化できる言葉が生み出されてしまうため、言葉では言い表せない。
だから、ト・ヘン(一者)が何であるかという説明としては、
「なになにではない」という消極的な表現しかできないとした。

なかなか、これは神秘主義というのもうなずけるが、続いてみていこう。

ト・ヘンはすべてを包括するのであるから、この世界もト・ヘンの
一部であるといわなければならない。しかし区別を一切持たない
はずのト・ヘンが、区別をもって目の前にあるとはどういうこと
なのか?ここが一番プロティノスが悩んだところだが、彼はこう
考えた。

ト・ヘンは無限であるが、その無限性のゆえに、それは溢れ出る
のだという。それは無尽蔵に湧き出る泉であって、これがこの世界を
形作るものである、と。

うまくイメージできないが、ト・ヘンを使うからには、こうするしか
ない。しかしパルメニデスの一(オン)を思い出すなぁ。

無尽蔵にあふれでる泉のイメージで、この世界を構築していく。
さてこの世の中には様々な区別があって、優劣もその中に含まれる。
これをプロティノスは、溢れ出す源泉であるト・ヘンに近いもの
ほど優れていて(善)、遠いものほど劣っている(悪)であるとし、
一番近いのは知性(ヌース)であり、思惟そのものであるとした。
ト・ヘンから離れれば離れるほど、実体はその完全性を失う
のである。

この最高のものがヌースであり、最下層に位置するものが質料で
あった。質料ということは、石とかそういう無機質な物体だろうか。

場所・空間の概念が存在しないト・ヘンの一部において「距離」があるとは
ヘンな話な気もするが、とりあえずおいておいて。

思惟はト・ヘンから最初に生まれるものであって、それ自体は
思惟する自己と他者の区別のみを有する、ト・ヘンに次ぐ包括を
持っている。つまりは、これ自体は、空間にも時間にも左右されない。
時間的に無限で、己と他者の区別以外もたないもの、それが人間の
もつ思惟の正体であり、またプラトンの考えたイデアであるとした。

また、もう少し思惟がト・ヘンから下降すると、魂になる。
このあたりは、プラトンの思想を踏襲している。純粋な真・善・美が
存在する英知界がヌースのある領域、よりト・ヘンに近いところ
なのであって、そこで本来の真・善・美を魂は知ることができていた
というわけだ。

生きとし生けるものはすべて魂があり、魂はヌースの具体的な
あらわれである(魂はヌースのロゴス的表現、というが、よく
意味はわからない)。したがって、生命現象がみられるものに
かんしては、それに思惟、魂が浸透していると考える。

しかし、ト・ヘンから遠のくにしたがって思惟の能力も衰える、
と考えもしただろうなぁ。
知能の高い、人間が第一という考え方もあったかもね。

ここらへんで、ト・ヘン→思惟(ヌース)→魂という段階が
できました。その2につづく。

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