つぎ、懐疑派にいきます。

これまで、アリストテレス以後の哲学としてストア派と
エピクロス派をみてきましたが、ストア派はA.D.150年頃まで
つづいたし、エピクロス派も、彼の熱烈な支持者である
哲学詩人ルクレティウス(B.C.99〜A.D.55)などによって、
紀元後まで長く伝えられたそうです。どれも発祥がB.C.300年
くらいだから、A.D.400年頃のアウグスティヌス、それか
1600年のデカルトまで2000年以上も、ずっと各学派の争いだった
っぽいですね。

しかし各学派はあれど、アリストテレスの形相因とか質料因の
考え方について何も代替案が出てない(全ては感覚である、とか何も
わからない、といった反論、というか相対化はされてるが)ところを
見ると、この点に関しては、本当にデカルトまでほとんど進展が
なかったっぽい。まだ中世哲学詳しくみてないから、わからない
けど。

現代人の考え方に即してみれば、アリストテレスの思想はもはや
物理学並の信頼性を得ていたのかもしれない。もう物理学以上に
この世のことを正しく説明できる方法はないだろう、という感覚で、
アリストテレスのウーシアの考え方も受け止められていたのだろうか。

しかしやっぱりこの空白の期間は、ビッグネームが出なかったという
だけのことなんでしょうか。よく知ってみれば、見るべき人は
たくさんいるかもしれないけど。

本があんまり残ってないというのもあるみたいです。
エピクロスなんか300近い書物を残したとされているけど、
こんにちほとんど残ってないとか。

ともあれ懐疑派にはいりましょう。

ストア派とエピクロス派は、アパテイアとアタラクシアと
少し違った内容ではあれど、心の平静を求めるための哲学には
違いなかった。この時代にはやはりこういう哲学への要請が
あったのであって、懐疑派にしてみても、その点は同じ。

では、懐疑派はどうやって心の平静を求めるのか?というと
名前の通り、全てに対して懐疑の目を向けた結果、確かなことは
感覚ですら得られないのだから、すべてにおいて、正しい認識や
考え方をもつことをあきらめる、判断停止(エポケー)すること
こそが、心の平静(アタラクシア)を得る唯一の方法とした。
(ちなみにこのエポケー、現代哲学になっても出てくる重要な言葉
です。ここで使われてる意味とも近い)

といちがいに言っても懐疑派の歴史は長いので、ストア派に
前・中・後があったのと同じく、懐疑派にも古・中・新が
あります。中に関しては、中アカデメイア、というみたいだけど。
これはジルソンの分類なのかな。

古はB.C.350年とかそのあたり、中はB.C.200年とか。
新になるとA.D.200年あたりにも懐疑派がいるそうな。

 
まあ、考え方としては、分からないでもないな〜とは思う。
現代でも、こんな感覚もって生きてる人もいるだろうし。

っていちいち現代人に即して考えてしまうけど、このほうが
なんとなく理解しやすいんだよね。
哲学も近代・現代のほうになると、たしかによくよく考えるとそうだが
一般人はそんなこと考えもしないワン、という領域に突入する
ので…。こんなこと言ってられるのもいまのうち。

さて当然懐疑派にも創始者はいます。エリスというところの人の
ピュロン(B.C.365〜B.C.275)。この人自身は著書を一切
残していないので、その弟子のティモン(B.C.320頃〜B.C.230頃)
によってその主張が伝えられているそうだ。

では、懐疑派の具体的な主張をみていこう。

ピュロンによれば、人が幸福に生きるためには、以下のことを
明確にしなければならないとした。

1.事物がどのような性質をしているか
2.事物に対してわれわれはどのような態度をとるべきか
3.事物に対して正しい態度をとるとき、そこからわれわれは
何を得ることができるか

一瞬、そうかな?とも思う。が、たぶん、ピュロンはこの後のことを
言いたいから、こんな問いを立てたのだろう。

1に関して、まず、ピュロンは、事物の本性をわれわれは
知ることができないとした。これは、感覚は、事物がどう
見えるのか、感じられるのかを教えはしても、事物そのものの
本性を伝えはしないから、であるそうだ。

これは我々の感覚としても、光は単に光子が反射しているだけ
だし、音は空気の振動だし。というところで理解できる考え方。

ピュロンは何より、いろいろなものに対しての考え方、学説が
いくつも乱立することが、このことを如実に証明していると
した。確かに、リゾーマタとかアトムとか、イデアとかウーシア
とか、事物の本性がどうなっているのか人間に直接分かるなら
こんな学派の乱立はないはずである。

よって、人間は事物の本性を知ることなどできないことが
分かるから、判断停止(エポケー)こそが、人間の事物にたいする
正しい態度、だとしたのである。

善も悪も、生も死も、どうなっているのか分からない、直接認識
できないから学派が乱立するのであって、認識できないものは
認識できないと割り切るべき。それに対しては何も考えないことと
する。そうすれば、一切の無駄な悩みが消え、その付随現象として、
形に影のそうごとく、心の平静(アタラクシア)にいたることが
できる、これがピュロンの考え方だった。

 
なんか、現世主義度というか、そういう尺度を勝手につくれば
ストア派〜エピクロス派〜懐疑派という順で、それが高くなって
いくね。現代でも、リアリストを自認する人は、こんな考え方
してそうだ。

これが古懐疑派の考え方です。その2につづく。

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