≪ギリシャ哲学(11)−エピクロス派について<その2>−≫
2004年7月20日<その1からつづき>
人間にとって確かなものは感覚のみ。
感覚のみであるから、どこかにある絶対善をめがけることも
なければ、神に奉仕することが善とすることもありえない。
基準は快・不快である。快は善であり、不快は悪である。
このへんは、アリスティッポスと同じ。
ストア派では倫理的な徳がすなわち最高の善であったの対して
エピクロス派では、快こそが善、となっている。
いわく、「もし私が味覚の快を遠ざけ、性愛の快を遠ざけ、聴覚の快を
遠ざけ、さらにまた形姿によって視覚におこる快なる感動をおも
遠ざけるならば、何を善いものと考えてよいか、この私には
わからない」。
反対意見も言えそうではあるが、ここはエピクロスの意図するところ
をつかんでおこう。イデアのような最高善を認めると、また
神やら絶対の世界やらが構築されてしまうからである。
さて、では、この快楽主義から、アリスティッポスみたいな、
色と欲を求めることを至上とする価値観が導き出されてしまう
のでは?とも思えるが、実際は、快楽主義という言葉から
想像されるものとは、ちょっと趣を異にしているようだ。
彼は、快を積極的、動的なものと、消極的、静的なものとに分けて
捉えたが、しかしどちらも快であることには違いないし、
快である以上は善である。動的なものが悪、静的なものが善という
ことはないと考えた。どちらも快であるので、善である。
ただし、刹那的、一時的な快は、後になってその何倍もの苦痛が
かえってくるが、純粋で持続的な快は、長く持続する。例えば
肉体的な欲望は大抵刹那的であり、求め続ければ結果的に、
その何倍もの不幸をもたらすが、精神的な快は純粋で持続的で
あると考えた。
ここから、積極的、動的な肉体的快楽を避け、消極的、静的な
精神的快楽を求めることが、人生をもっとも幸福に過ごす道である
と、エピクロスは考えた。消極的というのは、言葉をかえれば
欲を求めるのではなく、苦痛を避けること、つまりは人間の体が求める
最低限の欲を満たすことだ。
アリスティッポスは、快(善)は強ければ強いほどいいと考えたゆえに
動的な欲ばかり求めたが、しかし彼は本当に幸福だっただろうか。
エピクロスは、こうした消極的な快のみを満たし、心に平静を保つ
ことが、身体において苦痛がなく、魂においてわずらいのない
やすらかな状態、「アタラクシア」を得るために必要だとした。
(ストア派では、パトスを排し切った状態を「アパテイア(非情)」と
言ってましたな)
このへんは、本当に仏教に似ている。アタラクシアは悟りの境地
とはまた少し違うようにも思える(というか、俺のような俗物が
語れることではないけど)けど、たとえば次のような話も、
仏教における「中道を歩め」の思想をほうふつとさせる。
エピクロスは「一切の善の初めであり、根であるのは胃袋の
快である」と言った。人間にとっての基本的な欲求は身体的な
快楽であると考えたわけだ。
身体的な欲求は刹那的であって、求めすぎると逆に不快を増すから
なるべく抑えたほうが、結果的により快を得られる。
しかし質素にも限度があるのであって、それを無視する人は、
過度の贅沢を求める人と同様に、過つとした。
これに限らずだが、いろいろと仏教のモチーフが見受けられる
気もする。成立年代は違うのだろうか?
ともあれ、その点で、ストア派の提唱したような禁欲主義を、彼は否定した。
さらに欲望は、つぎのみっつに分けられるとした。
・「自然的で、必修なもの」=食、飲、住、衣など、生存していく
うえで必要な欲で、これを無視するのは危険である。
・「自然的だが、必修でないもの」=贅沢な食事、つづけざまの
飲酒、婦女子と遊び戯れることなど。
・「自然的でも、必修でもないもの」=富、地位、名声など、
生存にかかわらない欲望であって、これらは空しい臆見(ドクサ)に
もとづくのである。
エピクロスは、最初の自然的かつ、必修な欲求さえ満たせばよい、
さらに、それらを満たすのは容易であると考えていた。それは
「至福な自然に感謝しよう。彼女は必要なものは容易に獲得される
ものとし、獲得しにくいものは不必要としたがゆえに」という
彼の言葉にも表れている。
少々楽観的ではあるかもしれない。容易に得られるものにしか
手を出さなくなるという危険もある、かも。
しかし、平静な状態を目指すのであるから、そういう考え方は
必要かもしれない。
またエピクロスは「飽くことを知らないのは胃袋ではなく、
胃袋についての誤った臆見(ドクサ)、胃袋はこれを満たすのに
際限なく必要とするという誤った臆見(ドクサ)である」といい、
欲望は満たせば満たすほど際限なく広がっていき、それは
どこまでいっても満足することがない、と言った。
そんなものを満たすために苦闘するよりも、それを無視した方が
いいと考えたのである。
これも仏教に出てくる言葉であるが、つまりは「足るを知る」、
ということ、真に満たすべき欲望はほんの少しであることを
知ること、これが幸福、アタラクシアへいたる道であると結論している。
そして、それを洞察するところに、哲学の存在意義があると
するのである。ある意味、極まっているかもしれない。
それについてのエピクロスの言葉で、昭和堂のほうに引用されている
言葉に、こんなものがある。
「水とパンで暮らしておれば、わたしは身体の快に満ち満ちている」
「飢えない、渇かない、寒くないが肉体の欲求であるが、
これらを満たさんとして満たすにいたれば、人はゼウスとさえ
幸福を競いうるであろう」
これを読んだ時は、少し感銘を受けた。
実際、エピクロスはほとんどパンと水だけで暮らしていたような
生活であったらしい。
また非常に人格者で、周りの尊敬をかち得ていたことも、
いくつもの異なった書物から明らかであるらしい。
なんというか、もう、ゴータマ・シッダールタを連想せずには
いられない。(少し調べたら、仏教の成立は紀元前5世紀ころで
あったようだから…といっても、このころこちらの世界と
交流はあったのだろうか。詳しくは知らないが、哲学史にも
言及が無いので、たぶんなかったのだろう)
また、エピクロスは生涯、健康にすぐれなかったらしいが、
最期の日に友人にあてた手紙には、早世(早死に)した弟子の
子供たちの面倒を自分にかわってみてくれるよう願う言葉とともに、
こう記されていたという。
「尿道や腹の病は重くて、激しさの度は減じないが、それにも
かかわらず、君とこれまでかわした対話の思い出で魂の喜びに
満ちあふれている」
死ぬ寸前まで、足ることを知っていた人だったということだろうか。
なかなか得がたい人格者であったようだ。
もはや哲学というよりは、人生論という感じもしないでもないが
これがエピクロス派の哲学であった。
本来、無意味な論理的つきつめではなくて、こういうのが
哲学のあるべき姿だろ、と思う人もいるかもしれないなぁ。
人間にとって確かなものは感覚のみ。
感覚のみであるから、どこかにある絶対善をめがけることも
なければ、神に奉仕することが善とすることもありえない。
基準は快・不快である。快は善であり、不快は悪である。
このへんは、アリスティッポスと同じ。
ストア派では倫理的な徳がすなわち最高の善であったの対して
エピクロス派では、快こそが善、となっている。
いわく、「もし私が味覚の快を遠ざけ、性愛の快を遠ざけ、聴覚の快を
遠ざけ、さらにまた形姿によって視覚におこる快なる感動をおも
遠ざけるならば、何を善いものと考えてよいか、この私には
わからない」。
反対意見も言えそうではあるが、ここはエピクロスの意図するところ
をつかんでおこう。イデアのような最高善を認めると、また
神やら絶対の世界やらが構築されてしまうからである。
さて、では、この快楽主義から、アリスティッポスみたいな、
色と欲を求めることを至上とする価値観が導き出されてしまう
のでは?とも思えるが、実際は、快楽主義という言葉から
想像されるものとは、ちょっと趣を異にしているようだ。
彼は、快を積極的、動的なものと、消極的、静的なものとに分けて
捉えたが、しかしどちらも快であることには違いないし、
快である以上は善である。動的なものが悪、静的なものが善という
ことはないと考えた。どちらも快であるので、善である。
ただし、刹那的、一時的な快は、後になってその何倍もの苦痛が
かえってくるが、純粋で持続的な快は、長く持続する。例えば
肉体的な欲望は大抵刹那的であり、求め続ければ結果的に、
その何倍もの不幸をもたらすが、精神的な快は純粋で持続的で
あると考えた。
ここから、積極的、動的な肉体的快楽を避け、消極的、静的な
精神的快楽を求めることが、人生をもっとも幸福に過ごす道である
と、エピクロスは考えた。消極的というのは、言葉をかえれば
欲を求めるのではなく、苦痛を避けること、つまりは人間の体が求める
最低限の欲を満たすことだ。
アリスティッポスは、快(善)は強ければ強いほどいいと考えたゆえに
動的な欲ばかり求めたが、しかし彼は本当に幸福だっただろうか。
エピクロスは、こうした消極的な快のみを満たし、心に平静を保つ
ことが、身体において苦痛がなく、魂においてわずらいのない
やすらかな状態、「アタラクシア」を得るために必要だとした。
(ストア派では、パトスを排し切った状態を「アパテイア(非情)」と
言ってましたな)
このへんは、本当に仏教に似ている。アタラクシアは悟りの境地
とはまた少し違うようにも思える(というか、俺のような俗物が
語れることではないけど)けど、たとえば次のような話も、
仏教における「中道を歩め」の思想をほうふつとさせる。
エピクロスは「一切の善の初めであり、根であるのは胃袋の
快である」と言った。人間にとっての基本的な欲求は身体的な
快楽であると考えたわけだ。
身体的な欲求は刹那的であって、求めすぎると逆に不快を増すから
なるべく抑えたほうが、結果的により快を得られる。
しかし質素にも限度があるのであって、それを無視する人は、
過度の贅沢を求める人と同様に、過つとした。
これに限らずだが、いろいろと仏教のモチーフが見受けられる
気もする。成立年代は違うのだろうか?
ともあれ、その点で、ストア派の提唱したような禁欲主義を、彼は否定した。
さらに欲望は、つぎのみっつに分けられるとした。
・「自然的で、必修なもの」=食、飲、住、衣など、生存していく
うえで必要な欲で、これを無視するのは危険である。
・「自然的だが、必修でないもの」=贅沢な食事、つづけざまの
飲酒、婦女子と遊び戯れることなど。
・「自然的でも、必修でもないもの」=富、地位、名声など、
生存にかかわらない欲望であって、これらは空しい臆見(ドクサ)に
もとづくのである。
エピクロスは、最初の自然的かつ、必修な欲求さえ満たせばよい、
さらに、それらを満たすのは容易であると考えていた。それは
「至福な自然に感謝しよう。彼女は必要なものは容易に獲得される
ものとし、獲得しにくいものは不必要としたがゆえに」という
彼の言葉にも表れている。
少々楽観的ではあるかもしれない。容易に得られるものにしか
手を出さなくなるという危険もある、かも。
しかし、平静な状態を目指すのであるから、そういう考え方は
必要かもしれない。
またエピクロスは「飽くことを知らないのは胃袋ではなく、
胃袋についての誤った臆見(ドクサ)、胃袋はこれを満たすのに
際限なく必要とするという誤った臆見(ドクサ)である」といい、
欲望は満たせば満たすほど際限なく広がっていき、それは
どこまでいっても満足することがない、と言った。
そんなものを満たすために苦闘するよりも、それを無視した方が
いいと考えたのである。
これも仏教に出てくる言葉であるが、つまりは「足るを知る」、
ということ、真に満たすべき欲望はほんの少しであることを
知ること、これが幸福、アタラクシアへいたる道であると結論している。
そして、それを洞察するところに、哲学の存在意義があると
するのである。ある意味、極まっているかもしれない。
それについてのエピクロスの言葉で、昭和堂のほうに引用されている
言葉に、こんなものがある。
「水とパンで暮らしておれば、わたしは身体の快に満ち満ちている」
「飢えない、渇かない、寒くないが肉体の欲求であるが、
これらを満たさんとして満たすにいたれば、人はゼウスとさえ
幸福を競いうるであろう」
これを読んだ時は、少し感銘を受けた。
実際、エピクロスはほとんどパンと水だけで暮らしていたような
生活であったらしい。
また非常に人格者で、周りの尊敬をかち得ていたことも、
いくつもの異なった書物から明らかであるらしい。
なんというか、もう、ゴータマ・シッダールタを連想せずには
いられない。(少し調べたら、仏教の成立は紀元前5世紀ころで
あったようだから…といっても、このころこちらの世界と
交流はあったのだろうか。詳しくは知らないが、哲学史にも
言及が無いので、たぶんなかったのだろう)
また、エピクロスは生涯、健康にすぐれなかったらしいが、
最期の日に友人にあてた手紙には、早世(早死に)した弟子の
子供たちの面倒を自分にかわってみてくれるよう願う言葉とともに、
こう記されていたという。
「尿道や腹の病は重くて、激しさの度は減じないが、それにも
かかわらず、君とこれまでかわした対話の思い出で魂の喜びに
満ちあふれている」
死ぬ寸前まで、足ることを知っていた人だったということだろうか。
なかなか得がたい人格者であったようだ。
もはや哲学というよりは、人生論という感じもしないでもないが
これがエピクロス派の哲学であった。
本来、無意味な論理的つきつめではなくて、こういうのが
哲学のあるべき姿だろ、と思う人もいるかもしれないなぁ。
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