≪ギリシャ哲学(11)−エピクロス派について<その1>−≫
2004年7月20日つぎ、エピクロス派にはいります。
ここからアウグスティヌスまで(デカルトまで?)、長い間
哲学の学派の様々な各主張が入り乱れていたというだけあって、
このあともしばらく、ビッグネームではなくて学派の紹介が
つづきます。懐疑派、新プラトン派、などなど。
まあ、今でも、ポストモダンとか分析哲学、プラグマティズム
とか、哲学でも学派が分かれてるみたいですけどね。よく知らない
けど。いかん、また蛇足が。
ゼノンがアテナイに学校開いたのと同じ頃に、後に「エピクロスの
園」と呼ばれ有名になった庭園で、教えを広めていた人がいた。
それがエピクロス(B.C.341頃〜B.C.270頃)である。
彼は、乞われれば娼婦や奴隷にも門戸を開く学校をつくった
そうだ。機会均等ですな、いいですね。
ストア派のところでは書き忘れていたけど、実はこのころ、
ポリスの時代が終焉を迎えたそうだ。ヘレニズム時代らしいですね、
このころ。アテナイとスパルタが戦争に負けたか何かして、
ポリスの存在意義がうすれてきたとか。ちょっとよく知らないが。
今まで、ポリスの民としていかに生きるか、を目指して皆生きて
きたのに、これから何を目標に生きていったらいいのか?
足元がぐらつくような感覚があったようだ。
いいようのない不安にたいして、哲学がそれに救いの手を
さしのべる必要があったことは想像にかたくない。
それのひとつがストア派だったわけだけど、彼らは、世の中の
俗なものに心を動かされず、理性のみを頼りに徳を得ることが
可能であることを示そうとした、といえる。ただ厳格すぎて、
あまり受け入れられなかったみたいだけど。
さて、ではエピクロス派は、どんな主張をして、人々を救おうと
したのか。
彼はひとつには、哲学は世の役に立たねば意味が無いと考えた。
「人間のどんな苦悩も癒さないような哲学者のことばは空しい。
なぜなら身体から病気を追い払わない医術が何の役にも立たない
ように、哲学も、もしそれが魂の苦悩を癒さないなら、何の役にも
立たないからである」
と、言っていたそうだ。これは、現代でもうなずく人が多いのでは?
ストア派も、割と現代の潔癖な人、プラトニスト(?)の人には
受けがいいと思うけど、これも現世主義的な人にはうけよさそう。
また、彼は快楽主義をむねとした。
快楽主義のさきがけとしては、ソクラテスの弟子にアリスティッポスって
人がいて。この世に確かなのは感覚のみであるから、快は善、
不快は悪であるとして、ソクラテスの「よく生きよ」を「快く
生きよ」だと解釈して、色に欲にふけり、とにかくおのれの
快楽のために、したたかに人生をおくったそうだけど、
エピクロスはそれとは違う。
・哲学は、人間の苦悩を取り払うために役立たねばならない
・人間において、快こそが至上価値である
このふたつが大きな主張。また改めて、ポリスの人々に救いの手を
差し伸べる目的で、こういった考え方が提出された、ということを
記憶しておいて、ここからエピクロスの主張をみていこう。
まず彼は、基本的に唯物論者というか、近い発想をしている。
身体も魂も、デモクリトスの考えたような「原子」によって
出来ており、それが全てなくなるのが死である、とした。
しかし決定論者ではなくて、そこには自由や偶然性が
見られる、と主張もしていたようだ。これによって、まず
そのころ人々をおびやかしていた宿命論をしりぞけたとか。
また、彼は知識の基盤は「感覚」であって、何かが正しいか
否かというのは、知覚によって確かめられる、とした。
(つまり、認識の前提となるイデアなどを認めてないね)
かなりシンプルな世界観、認識論だ。
これは、時代背景と、哲学は有用でなくてはならない、という
観点からくるものだ。
世界は宿命によって決定づけられてはおらず、また個々人の
自由も保障されている。加えてすべては原子からできているから、
死など恐れる必要はない。なぜなら魂も原子で出来ているから、
死ぬことは魂が霧散することであり、何も感じなくなることだから
である。
「死はじつはわれわれにとって何ものでもないのです。なぜかといえば、
われわれが存する限り、死は現に存せず、死が現に存するときには、
もはやわれわれは存しないのですから」。
割と有名な言葉っぽいけど、エピクロスが言ったことらしい。
あと、神による宿命論もしりぞける必要があったので、神については
彼はこういっている。
神はもっとも小さな原子であり、世界と世界とへだてる、
中間世界において至福の生をおくっているのであって、いちいち
小さな人間のことなど、神は気にかけたりしない。
神が人間などに関心をもち、人間に禍を下したり、恩恵を
与えたりするなどと主張することこそ、神に対する不敬なのである。
「多くの人々の信じている神々を否認する人々が不敬なのではなく、
かえって多くの人々の抱いている臆見を神々におしつける人々が
不敬なのです」と言ったそうだ。
唯物論的な世界観と自由意志プラス、さらにこういった
神に対する認識から、人々の不安を取り除こうとしたわけである。
で、不安を取り除いたはいいが、どうやって幸福を求めたら
いいのか?これが、感覚のみを基盤とする彼の認識論から
答えられることになる。
ちょっと長くなったのでその2にいきます。
ここからアウグスティヌスまで(デカルトまで?)、長い間
哲学の学派の様々な各主張が入り乱れていたというだけあって、
このあともしばらく、ビッグネームではなくて学派の紹介が
つづきます。懐疑派、新プラトン派、などなど。
まあ、今でも、ポストモダンとか分析哲学、プラグマティズム
とか、哲学でも学派が分かれてるみたいですけどね。よく知らない
けど。いかん、また蛇足が。
ゼノンがアテナイに学校開いたのと同じ頃に、後に「エピクロスの
園」と呼ばれ有名になった庭園で、教えを広めていた人がいた。
それがエピクロス(B.C.341頃〜B.C.270頃)である。
彼は、乞われれば娼婦や奴隷にも門戸を開く学校をつくった
そうだ。機会均等ですな、いいですね。
ストア派のところでは書き忘れていたけど、実はこのころ、
ポリスの時代が終焉を迎えたそうだ。ヘレニズム時代らしいですね、
このころ。アテナイとスパルタが戦争に負けたか何かして、
ポリスの存在意義がうすれてきたとか。ちょっとよく知らないが。
今まで、ポリスの民としていかに生きるか、を目指して皆生きて
きたのに、これから何を目標に生きていったらいいのか?
足元がぐらつくような感覚があったようだ。
いいようのない不安にたいして、哲学がそれに救いの手を
さしのべる必要があったことは想像にかたくない。
それのひとつがストア派だったわけだけど、彼らは、世の中の
俗なものに心を動かされず、理性のみを頼りに徳を得ることが
可能であることを示そうとした、といえる。ただ厳格すぎて、
あまり受け入れられなかったみたいだけど。
さて、ではエピクロス派は、どんな主張をして、人々を救おうと
したのか。
彼はひとつには、哲学は世の役に立たねば意味が無いと考えた。
「人間のどんな苦悩も癒さないような哲学者のことばは空しい。
なぜなら身体から病気を追い払わない医術が何の役にも立たない
ように、哲学も、もしそれが魂の苦悩を癒さないなら、何の役にも
立たないからである」
と、言っていたそうだ。これは、現代でもうなずく人が多いのでは?
ストア派も、割と現代の潔癖な人、プラトニスト(?)の人には
受けがいいと思うけど、これも現世主義的な人にはうけよさそう。
また、彼は快楽主義をむねとした。
快楽主義のさきがけとしては、ソクラテスの弟子にアリスティッポスって
人がいて。この世に確かなのは感覚のみであるから、快は善、
不快は悪であるとして、ソクラテスの「よく生きよ」を「快く
生きよ」だと解釈して、色に欲にふけり、とにかくおのれの
快楽のために、したたかに人生をおくったそうだけど、
エピクロスはそれとは違う。
・哲学は、人間の苦悩を取り払うために役立たねばならない
・人間において、快こそが至上価値である
このふたつが大きな主張。また改めて、ポリスの人々に救いの手を
差し伸べる目的で、こういった考え方が提出された、ということを
記憶しておいて、ここからエピクロスの主張をみていこう。
まず彼は、基本的に唯物論者というか、近い発想をしている。
身体も魂も、デモクリトスの考えたような「原子」によって
出来ており、それが全てなくなるのが死である、とした。
しかし決定論者ではなくて、そこには自由や偶然性が
見られる、と主張もしていたようだ。これによって、まず
そのころ人々をおびやかしていた宿命論をしりぞけたとか。
また、彼は知識の基盤は「感覚」であって、何かが正しいか
否かというのは、知覚によって確かめられる、とした。
(つまり、認識の前提となるイデアなどを認めてないね)
かなりシンプルな世界観、認識論だ。
これは、時代背景と、哲学は有用でなくてはならない、という
観点からくるものだ。
世界は宿命によって決定づけられてはおらず、また個々人の
自由も保障されている。加えてすべては原子からできているから、
死など恐れる必要はない。なぜなら魂も原子で出来ているから、
死ぬことは魂が霧散することであり、何も感じなくなることだから
である。
「死はじつはわれわれにとって何ものでもないのです。なぜかといえば、
われわれが存する限り、死は現に存せず、死が現に存するときには、
もはやわれわれは存しないのですから」。
割と有名な言葉っぽいけど、エピクロスが言ったことらしい。
あと、神による宿命論もしりぞける必要があったので、神については
彼はこういっている。
神はもっとも小さな原子であり、世界と世界とへだてる、
中間世界において至福の生をおくっているのであって、いちいち
小さな人間のことなど、神は気にかけたりしない。
神が人間などに関心をもち、人間に禍を下したり、恩恵を
与えたりするなどと主張することこそ、神に対する不敬なのである。
「多くの人々の信じている神々を否認する人々が不敬なのではなく、
かえって多くの人々の抱いている臆見を神々におしつける人々が
不敬なのです」と言ったそうだ。
唯物論的な世界観と自由意志プラス、さらにこういった
神に対する認識から、人々の不安を取り除こうとしたわけである。
で、不安を取り除いたはいいが、どうやって幸福を求めたら
いいのか?これが、感覚のみを基盤とする彼の認識論から
答えられることになる。
ちょっと長くなったのでその2にいきます。
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