≪ギリシャ哲学(10)−ストア派について<その2>−≫
2004年7月18日<その1からつづき>
さていつも余談をしてしまうけど、人間て、何かものごとを
割り切って考えることが好きだと思う。
たとえば、「他人なんか信用しない」と考える人は、ほとんど
他人を信用しないって方針を固めてしまって生活するように
なる。
本当は、ケースバイケースなんだけどね。信用できる他人だって
いるだろうし、これはちょっと信用するのは無理、って人も
いる。知ってみないと、分からないんです。
でも、大学の心理学の講義で習ったことには、人間は、認識に
費やす労力を「節約する」動物なんだそうです。ある程度の
ステレオタイプをつねに物事にあてはめていて、それで、
いちいち厳密に判断する無駄を省く、と。
不思議なことに、人間て、自分が考え出した「正しい考え方」に、
自分の生き方を引っ張られてしまうような生物なんだよね。
自分を省みるに、本当そう思う。
実際はね。何か正しい考え方を見つけて、それをすべてに当てはめる
のじゃなくて、何においても外せないような「考え方の原理」を
手に入れることが、肝要なのだけどね。(これも竹田さんの受けうりだが)
なんでこんな話をしたかって、このストア派のゼノンも、割と
似たような感じだな、なんて思ったから。
実際、ゼノンでなくても、たとえば、「女性との交流なんてカラダが
目的だよ」とか「恋愛はプラトニックなものが理想だ(プラトニック
って、プラトンが語源なんです実は)」とか、極論にはしって、
それがさも真理であるかのように言っている人は多い。
明らかな二項対立であって、どっちが正しいなんて言えない
わけだけどね。
あぁ、また余談で埋まる。ストア派の思想を書きます。
考え方は基本的にキニク派とかわらないと言ったけど、「自然」
にしたがって生きるのが「賢者」であるというところは同じ。
ここまでは同じだけど、ストア派では、この「自然」を、
人間の「理性」にしたがって生きることだと考えた。
なぜ、そうなるのか?
まずストア派は、この世に存在するものは、すべてそこに
感じられるもののみなのであって、形相とかイデアなどは実体では
ないと考えた。そこにあるもののみが物質、それ以上はなにも
ない。
じゃあ人間が共通の普遍的な理解をもつのが可能なのはなぜ?と
聞きたくなるが、まぁそこは流しておこう。
この考え方からすれば、魂も物体である。気息(=空気)の流れ
が魂なのであり、本当に物体以外何も存在していない。
今でいう、唯物論、唯物思想だ。
ちなみに、この世に心しかなく、世界は心が描いているだけのもの
というのは唯心論。両方あるってのが物心二元論。
ところで、この世に存在するのがアリストテレスの言うところの
質料、物体だけだとしても、物体は明らかに運動をおこなって
いる。この運動はどこからくるか?これを、ストア派では、
ヘラクレイトスにならって火であるとした。
この世は、造化(天地とその間に存在する万物をつくり出し、
育てること。また、その道理・それを行う神)の火がつくりだしている
のであって、個々の自然物はこの火によって順々に生み出されて
いく。
これは無限には続かず、そのうち、この造化の火によって世界は
焼き尽くされ、また同じ世界が繰り返される。ニーチェの永劫回帰の
先取りという感じだが、こういう世界観をもっていた。
しかしながら、そう考えていたにもかかわらず、この世は機械的な
ものとはゼノンは考えず、それ自身が精神なのであって、また、
この世界そのものが、この世界の秩序をあらわすもとになっている
「神」であると考えた。
それゆえ万物は神のあらわれであって、この世の全てに神が
宿っている。こういう考え方を汎神論という。日本の神道は
こういう考え方だよね。
こう考えたのはなぜかというと、ヘラクレイトスが万物の根源に
あってこの世を秩序づけるものを「ロゴス」と呼び、また、
このロゴスには人間の理性、言葉という意味があったからである。
ゼノンはこのふたつを同一視することで、こういった理論を
導き出した。
このように、自然は根源火の展開であるとされ、また、根源火
そのものが神、理性(ロゴス)であって、これに自然は秩序づけられている
と考え、また、人間も、本来の生き方としては、理性(ロゴス)に
従うことこそが本来の生き方だと考えたのである。
つまり、自然の本来の摂理に従うことが幸福である、と考えた
ということだろうか。
こうした自然の摂理…ようするに人間の理性なのだが、これに
従うことが自然と一体化することだと信じ、それに従わない
ことを悪とし、またどちらでもないものを「善悪どちらでもないもの」
「どうでもよいもの」(アディアボラ)とした。
思慮、正義、勇気、節制などが善であり、その反対は悪。
富とか名声などを投げ捨ててでもこれに従うのが自然の摂理で
あり、自然と一体化して生きねばならないとした。
だが人間に衝動があることは否定しようのない事実で、誰しもが
それに完璧に沿うこともまた不可能である。それはゼノンも
分かっていたようで、適度ならば自然的ではある、とした。
しかし、過度になってくると情念(パトス)となり、それは人間を
自然から逸脱させるとされた。特に、苦悩、恐怖、欲望、快楽の
四つの情念(パトス)を挙げているという。
これらのパトスを排し、いかなるパトスによっても影響される
ことのない、魂の不動の状態、アパテイア(非情)を人間の
精神の理想状態とした。
ストア派は極端な禁欲主義、厳格主義といわれるが、これを
見るとよくわかる。欲望をすべて排するべきというのだから…
こういう、人間の理性や言葉によって、日常の背後に隠される
真理に到達できるという考え方を、デリダは「ロゴス中心主義」
と呼んだそうだ。
考え方としては、けっこう魅力的ではあるが、実際自分がやる
となると無理くさいことはよくわかると思う。このあたりには
色々時代背景もひそんでいるとは思うが、少々極端にふれた
考え方だった。
さていつも余談をしてしまうけど、人間て、何かものごとを
割り切って考えることが好きだと思う。
たとえば、「他人なんか信用しない」と考える人は、ほとんど
他人を信用しないって方針を固めてしまって生活するように
なる。
本当は、ケースバイケースなんだけどね。信用できる他人だって
いるだろうし、これはちょっと信用するのは無理、って人も
いる。知ってみないと、分からないんです。
でも、大学の心理学の講義で習ったことには、人間は、認識に
費やす労力を「節約する」動物なんだそうです。ある程度の
ステレオタイプをつねに物事にあてはめていて、それで、
いちいち厳密に判断する無駄を省く、と。
不思議なことに、人間て、自分が考え出した「正しい考え方」に、
自分の生き方を引っ張られてしまうような生物なんだよね。
自分を省みるに、本当そう思う。
実際はね。何か正しい考え方を見つけて、それをすべてに当てはめる
のじゃなくて、何においても外せないような「考え方の原理」を
手に入れることが、肝要なのだけどね。(これも竹田さんの受けうりだが)
なんでこんな話をしたかって、このストア派のゼノンも、割と
似たような感じだな、なんて思ったから。
実際、ゼノンでなくても、たとえば、「女性との交流なんてカラダが
目的だよ」とか「恋愛はプラトニックなものが理想だ(プラトニック
って、プラトンが語源なんです実は)」とか、極論にはしって、
それがさも真理であるかのように言っている人は多い。
明らかな二項対立であって、どっちが正しいなんて言えない
わけだけどね。
あぁ、また余談で埋まる。ストア派の思想を書きます。
考え方は基本的にキニク派とかわらないと言ったけど、「自然」
にしたがって生きるのが「賢者」であるというところは同じ。
ここまでは同じだけど、ストア派では、この「自然」を、
人間の「理性」にしたがって生きることだと考えた。
なぜ、そうなるのか?
まずストア派は、この世に存在するものは、すべてそこに
感じられるもののみなのであって、形相とかイデアなどは実体では
ないと考えた。そこにあるもののみが物質、それ以上はなにも
ない。
じゃあ人間が共通の普遍的な理解をもつのが可能なのはなぜ?と
聞きたくなるが、まぁそこは流しておこう。
この考え方からすれば、魂も物体である。気息(=空気)の流れ
が魂なのであり、本当に物体以外何も存在していない。
今でいう、唯物論、唯物思想だ。
ちなみに、この世に心しかなく、世界は心が描いているだけのもの
というのは唯心論。両方あるってのが物心二元論。
ところで、この世に存在するのがアリストテレスの言うところの
質料、物体だけだとしても、物体は明らかに運動をおこなって
いる。この運動はどこからくるか?これを、ストア派では、
ヘラクレイトスにならって火であるとした。
この世は、造化(天地とその間に存在する万物をつくり出し、
育てること。また、その道理・それを行う神)の火がつくりだしている
のであって、個々の自然物はこの火によって順々に生み出されて
いく。
これは無限には続かず、そのうち、この造化の火によって世界は
焼き尽くされ、また同じ世界が繰り返される。ニーチェの永劫回帰の
先取りという感じだが、こういう世界観をもっていた。
しかしながら、そう考えていたにもかかわらず、この世は機械的な
ものとはゼノンは考えず、それ自身が精神なのであって、また、
この世界そのものが、この世界の秩序をあらわすもとになっている
「神」であると考えた。
それゆえ万物は神のあらわれであって、この世の全てに神が
宿っている。こういう考え方を汎神論という。日本の神道は
こういう考え方だよね。
こう考えたのはなぜかというと、ヘラクレイトスが万物の根源に
あってこの世を秩序づけるものを「ロゴス」と呼び、また、
このロゴスには人間の理性、言葉という意味があったからである。
ゼノンはこのふたつを同一視することで、こういった理論を
導き出した。
このように、自然は根源火の展開であるとされ、また、根源火
そのものが神、理性(ロゴス)であって、これに自然は秩序づけられている
と考え、また、人間も、本来の生き方としては、理性(ロゴス)に
従うことこそが本来の生き方だと考えたのである。
つまり、自然の本来の摂理に従うことが幸福である、と考えた
ということだろうか。
こうした自然の摂理…ようするに人間の理性なのだが、これに
従うことが自然と一体化することだと信じ、それに従わない
ことを悪とし、またどちらでもないものを「善悪どちらでもないもの」
「どうでもよいもの」(アディアボラ)とした。
思慮、正義、勇気、節制などが善であり、その反対は悪。
富とか名声などを投げ捨ててでもこれに従うのが自然の摂理で
あり、自然と一体化して生きねばならないとした。
だが人間に衝動があることは否定しようのない事実で、誰しもが
それに完璧に沿うこともまた不可能である。それはゼノンも
分かっていたようで、適度ならば自然的ではある、とした。
しかし、過度になってくると情念(パトス)となり、それは人間を
自然から逸脱させるとされた。特に、苦悩、恐怖、欲望、快楽の
四つの情念(パトス)を挙げているという。
これらのパトスを排し、いかなるパトスによっても影響される
ことのない、魂の不動の状態、アパテイア(非情)を人間の
精神の理想状態とした。
ストア派は極端な禁欲主義、厳格主義といわれるが、これを
見るとよくわかる。欲望をすべて排するべきというのだから…
こういう、人間の理性や言葉によって、日常の背後に隠される
真理に到達できるという考え方を、デリダは「ロゴス中心主義」
と呼んだそうだ。
考え方としては、けっこう魅力的ではあるが、実際自分がやる
となると無理くさいことはよくわかると思う。このあたりには
色々時代背景もひそんでいるとは思うが、少々極端にふれた
考え方だった。
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