≪ギリシャ哲学(9)−アリストテレスについて−<その2>≫
2004年7月18日<その1からつづき>
それにしても、哲学者って英語は当然ながら、著名な哲学者を
多く出しているドイツの言語であるドイツ語、またラテン語とか
ギリシャ語なども、原著にあたり、語源を調べるために習得している
ことが多いみたいだなぁ。話せはしないかもしれないが、
読めるのは確かだと思う。すごい。
俺もドイツ語おぼえてイデーンを原著で…なんて思うがまぁ、
無理だろな〜。べつに趣味レベルでかまわんし。
さて、ウーシアの説明にはいります。
俺は基本的にバカなので、こういった説明は、自分の生活感覚に
沿って理解しないと、意味不明な言葉の羅列に終わってしまう。
自分がよく理解する意味でも、なるべく平易に説明しようと思う。
目の前になにかものがあったとして、そのものが、なぜ四角だとか
三角だとか判断できるのか、不思議には思える。また、机ならば
なぜそれが机だと分かるのか不思議だ。これをイデアなどという
概念でなくて、「形相」って言葉を使って、説明する。
机には、それが机だと思えるような、外観とか、手触りとか、
木の香りとかを、そなえている。これが「形相」なんだね。
まったく机の形も、手触りもしないものを「机」とは思わない
ので、これは分かると思う。
ところが、それらの性質(形相)をいくらあげても、その
形相そのもので机はあらわせない。机をあらわすのに、「木で
出来ているもの」と言っても、それは机そのものを指したのでは
なくて、ほかの木製製品と共通の(普遍の)性質を言ったに
過ぎないから。
しかし、目の前には、それらの性質を兼ね備えた「もの」が
確かに存在している。その、目の前に存在する「もの」に、
「感じうる限りの性質」を備えたものが「机」と呼べると
思う。
この、「もの」が質料。「感じうる限りの性質」が形相だと思う。
これをあわせた「机」が、「第一実体」であり、「ウーシア」と
呼ばれるもの。
実際、感じうるすべてのものを「机」から省くということは、
それは人間にとって何もなくなるということを意味すると思う。
色、手触り、香り、大きさ、すべて除いたら何もなくなる。それらは
人間が感覚しているものだから。しかし、そこには確かに、
本来人間に何かを感じさせる物体が存在してるわけだ。
これが「質料」、というわけだと思う。
この世に存在しているものは、地、水、火、風ではなくて、
スペルマタでもなくて、一(オン)でもない。また、イデアも
存在しない。
この世に存在するものは、目の前にある「もの」と、その「もの」から
感じる「感覚」のふたつのみである、とアリストテレスは
言いたかったのだと思う。
そして、それらがあわさったのが第一実体、ウーシア。
(もちろん、この頃は、人間の精神が思惟(思考)することは
別枠として考えられてたと思うけどね)
ちなみに、形相そのものは、「第二実体」と呼ばれるようだ。
これは、イデア説に対する批判からきていると思う。イデアに
おけるものの性質などは、実体ではなくて、天上界、英知界に
おける絶対的なもの。これをアリストテレスは認めるわけに
いかなかったから、性質も実体として存在するとした。しかし、
形相がそれだけで存在してしまうと、これはイデアとかわらない
ので、この場合の実体は、あくまで第一実体に含まれていなければ
存在しないとして、第二実体となっているのだと思う。
イデア説とは少し観点が違うにせよ、今までの説明と比べると
じつにこの世の説明にかなったものだと思える。
2000年間、これで通ってきたというのも少しうなずける。
この世界に存在するものの整理ができたら、今度は、それが
どうやって動くかの説明だ。
アリストテレスは、万物の変化の原理について、ヌースとかケノンとか
いうのでなくて、もう少し分けて考えた。
「第一実体」には、潜勢態(または可能態。デュナミス)と
現実態(エネルゲイア)というふたつの状態があって、前の状態
というのは、つまりは変化する以前の状態。で、後の状態は、
変化した後の状態のことを言う。このふたつは、第一実体に
もともと含まれていて、それが表れることで人間には「変化して
いるように見える」そうだ。
例を挙げると、種が地にまかれると、そこから植物がはえて
花が咲く。これは、種が潜勢態であって、その内に秘める現実態を
出現させて、完全体になったのだと彼は説明する。
だから、ウーシアの、形相が変化するように見えるのは、もともと
ウーシアに含まれていた形相があらわれたにすぎない、ということ
だと思う。これはイデアでは触れられなかった、「変化の説明」で
世界説明としては、たしかにイデア説より優れている。
そして彼は、運動の原因として、「四原因説」をあげた。
種が花をつけて実を結ぶように、この世に存在するウーシアには、
かならず目的とその原因があり、その目的を理解することで、
世界が理解できると考えた。
そのよっつの原因とは、質料因、形相因、動力因、目的因。
質料因と形相因は、そのままだと思う。あわせてウーシアになる。
しかし、このふたつを動かす原因がある。ものは移動するし、
いろいろ組み合わさったりする。これが動力因。また、自然は
ただ無秩序に動き回るだけではなく、どこかに向かって目的を
もって動いているように見える。これが目的因。動力因と目的因が、
ウーシアから、内在している形相(因)を現出させる、という
考えだと思う。
かくして、人間が目にするのは、そのウーシアが有する
形相が、動力因と目的因によって今、現出しているもの…という
ことになる。
よく、「家にたとえると、質料因が木材で、形相因が家の形、
動力因が大工、目的因が住むこと」って説明されるが、たとえが
比喩的すぎてよくわからない。自分としては上の説明みたいなこと
だと思う(まちがっているかも)。
また、アリストテレスはこの世の物質に「目的」を求めたが、
今のウーシアの状態になるにも、それ以前の目的因の影響が
あったと考えるのが自然である。かくして、目的因は無限に
遡及(さかのぼる)できてしまうことになるが、これは不自然だし、
この世の意味を喪失させてしまう考えだと彼は思い、究極的な
目的因として、この時代としてはポピュラーな概念であろう
「神」を想定した。
彼は哲学の目的を、万物の目的を理解することであると考え、
またこの万物の目的のもとである「神」を認識することによって、
すべてを説明づけることだと考えた。人間は神を思惟することに
よって、最高の善を得ることができる、と。
締めがちょっと神話的だし、まだ煮詰められていないところは
あるけれど、これ以前の哲学者よりは、世界観は大分整理されて
きている。このほかにも、様々な分野で膨大な文献を残している
だけあって、この後2000年間、彼は学問界のデファクトスタンダードに
なっていくようだ。
さて、もう少しでギリシャ哲学は終了ですな。次、ストア派、
エピクロス派、懐疑派を終えたら、中世哲学です。
それにしても、哲学者って英語は当然ながら、著名な哲学者を
多く出しているドイツの言語であるドイツ語、またラテン語とか
ギリシャ語なども、原著にあたり、語源を調べるために習得している
ことが多いみたいだなぁ。話せはしないかもしれないが、
読めるのは確かだと思う。すごい。
俺もドイツ語おぼえてイデーンを原著で…なんて思うがまぁ、
無理だろな〜。べつに趣味レベルでかまわんし。
さて、ウーシアの説明にはいります。
俺は基本的にバカなので、こういった説明は、自分の生活感覚に
沿って理解しないと、意味不明な言葉の羅列に終わってしまう。
自分がよく理解する意味でも、なるべく平易に説明しようと思う。
目の前になにかものがあったとして、そのものが、なぜ四角だとか
三角だとか判断できるのか、不思議には思える。また、机ならば
なぜそれが机だと分かるのか不思議だ。これをイデアなどという
概念でなくて、「形相」って言葉を使って、説明する。
机には、それが机だと思えるような、外観とか、手触りとか、
木の香りとかを、そなえている。これが「形相」なんだね。
まったく机の形も、手触りもしないものを「机」とは思わない
ので、これは分かると思う。
ところが、それらの性質(形相)をいくらあげても、その
形相そのもので机はあらわせない。机をあらわすのに、「木で
出来ているもの」と言っても、それは机そのものを指したのでは
なくて、ほかの木製製品と共通の(普遍の)性質を言ったに
過ぎないから。
しかし、目の前には、それらの性質を兼ね備えた「もの」が
確かに存在している。その、目の前に存在する「もの」に、
「感じうる限りの性質」を備えたものが「机」と呼べると
思う。
この、「もの」が質料。「感じうる限りの性質」が形相だと思う。
これをあわせた「机」が、「第一実体」であり、「ウーシア」と
呼ばれるもの。
実際、感じうるすべてのものを「机」から省くということは、
それは人間にとって何もなくなるということを意味すると思う。
色、手触り、香り、大きさ、すべて除いたら何もなくなる。それらは
人間が感覚しているものだから。しかし、そこには確かに、
本来人間に何かを感じさせる物体が存在してるわけだ。
これが「質料」、というわけだと思う。
この世に存在しているものは、地、水、火、風ではなくて、
スペルマタでもなくて、一(オン)でもない。また、イデアも
存在しない。
この世に存在するものは、目の前にある「もの」と、その「もの」から
感じる「感覚」のふたつのみである、とアリストテレスは
言いたかったのだと思う。
そして、それらがあわさったのが第一実体、ウーシア。
(もちろん、この頃は、人間の精神が思惟(思考)することは
別枠として考えられてたと思うけどね)
ちなみに、形相そのものは、「第二実体」と呼ばれるようだ。
これは、イデア説に対する批判からきていると思う。イデアに
おけるものの性質などは、実体ではなくて、天上界、英知界に
おける絶対的なもの。これをアリストテレスは認めるわけに
いかなかったから、性質も実体として存在するとした。しかし、
形相がそれだけで存在してしまうと、これはイデアとかわらない
ので、この場合の実体は、あくまで第一実体に含まれていなければ
存在しないとして、第二実体となっているのだと思う。
イデア説とは少し観点が違うにせよ、今までの説明と比べると
じつにこの世の説明にかなったものだと思える。
2000年間、これで通ってきたというのも少しうなずける。
この世界に存在するものの整理ができたら、今度は、それが
どうやって動くかの説明だ。
アリストテレスは、万物の変化の原理について、ヌースとかケノンとか
いうのでなくて、もう少し分けて考えた。
「第一実体」には、潜勢態(または可能態。デュナミス)と
現実態(エネルゲイア)というふたつの状態があって、前の状態
というのは、つまりは変化する以前の状態。で、後の状態は、
変化した後の状態のことを言う。このふたつは、第一実体に
もともと含まれていて、それが表れることで人間には「変化して
いるように見える」そうだ。
例を挙げると、種が地にまかれると、そこから植物がはえて
花が咲く。これは、種が潜勢態であって、その内に秘める現実態を
出現させて、完全体になったのだと彼は説明する。
だから、ウーシアの、形相が変化するように見えるのは、もともと
ウーシアに含まれていた形相があらわれたにすぎない、ということ
だと思う。これはイデアでは触れられなかった、「変化の説明」で
世界説明としては、たしかにイデア説より優れている。
そして彼は、運動の原因として、「四原因説」をあげた。
種が花をつけて実を結ぶように、この世に存在するウーシアには、
かならず目的とその原因があり、その目的を理解することで、
世界が理解できると考えた。
そのよっつの原因とは、質料因、形相因、動力因、目的因。
質料因と形相因は、そのままだと思う。あわせてウーシアになる。
しかし、このふたつを動かす原因がある。ものは移動するし、
いろいろ組み合わさったりする。これが動力因。また、自然は
ただ無秩序に動き回るだけではなく、どこかに向かって目的を
もって動いているように見える。これが目的因。動力因と目的因が、
ウーシアから、内在している形相(因)を現出させる、という
考えだと思う。
かくして、人間が目にするのは、そのウーシアが有する
形相が、動力因と目的因によって今、現出しているもの…という
ことになる。
よく、「家にたとえると、質料因が木材で、形相因が家の形、
動力因が大工、目的因が住むこと」って説明されるが、たとえが
比喩的すぎてよくわからない。自分としては上の説明みたいなこと
だと思う(まちがっているかも)。
また、アリストテレスはこの世の物質に「目的」を求めたが、
今のウーシアの状態になるにも、それ以前の目的因の影響が
あったと考えるのが自然である。かくして、目的因は無限に
遡及(さかのぼる)できてしまうことになるが、これは不自然だし、
この世の意味を喪失させてしまう考えだと彼は思い、究極的な
目的因として、この時代としてはポピュラーな概念であろう
「神」を想定した。
彼は哲学の目的を、万物の目的を理解することであると考え、
またこの万物の目的のもとである「神」を認識することによって、
すべてを説明づけることだと考えた。人間は神を思惟することに
よって、最高の善を得ることができる、と。
締めがちょっと神話的だし、まだ煮詰められていないところは
あるけれど、これ以前の哲学者よりは、世界観は大分整理されて
きている。このほかにも、様々な分野で膨大な文献を残している
だけあって、この後2000年間、彼は学問界のデファクトスタンダードに
なっていくようだ。
さて、もう少しでギリシャ哲学は終了ですな。次、ストア派、
エピクロス派、懐疑派を終えたら、中世哲学です。
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