<その4からつづき>

じゃあ、どう考えようか?
不確かと言われてる感覚だけど、どう考えたって目の前のものは
変化してるじゃん。しかし論理的にいうと、水とかそういう
感覚的なもので語ってもいくらでも反論できるし、論理だけだと
一ってことになってしまう…けどどう見ても変化してるし…う〜ん…

なら、不動の一じゃなくて、四つにすれば、それらの組み合わせ
で変化が説明できるんじゃ?

そう考えたのが、エンペドクレス。

もちろん、ヘラクレイトスが「火」によって説明しようとした
運動の原理も忘れてはいません。

「一(オン)」でなく、「四根」、「万物の根(リゾーマタ)」
である、地・水・火・風のよっつからなっている。

また、運動の原理は、「愛」によってくっつき、「憎しみ」によって
離れることで起こるんだ。

こうした、四つの元素と、二つの運動原理からこの世は成り立つ
とした。
ちなみに四つの元素は不滅なので、永遠に運動しつづけます。

(こうした単純な原理からこの世全てが説明できると考えたのは、
わずかの公理から成り立つ数学的な世界を想像していたからかも
しれない)

ともあれ、エンペドクレスは、「これで説明いったろ!」と
ほくほくだったに違いない。

 
アナクサゴラスとばして、デモクリトスを先にやります。

彼は、「アトム」という、ひとつの性質をもつものが無数に存在し
その組み合わさる形によってこの世の全てのものは区別されてる
とした。運動原理は、アトムとアトムの隙間を埋める「ケノン」
にだけ、支配される。ケノンさえ動けばアトムは無差別にくっつい
たり離れたりするので、実際の世界にはそぐわないアイデア。

 
さて、アナクサゴラス。彼は「種子(スペルマタ)」という、
すべてを含んでいる無限の粒子がこの世を構成しているとした。

まぁ、この点はほかとそう変わったアイデアでもない。
パルメニデスの一(オン)を受けついで、なんとか世界の変化を
説明づけようとしたアイデアのうちのひとつである。

ただ、彼がその運動原理であるとした「ヌース」、これが実は
プラトンのイデア論の着想へと繋がったらしいのである。

というのも、この「ヌース」というのは、「理性」という意味、
また「魂をもつものすべての主人であって、この世を秩序づける
もの」としている。

この点がソクラテス(プラトン)が気に入った点で、というのも、
世界は実は、人間の観点や欲望によって秩序付けられている面がある
という本質を衝いていると思ったからである。

まあ、細かい点で気に入らない点はあったようだが、基本的に
この考え方は、ソクラテス(プラトン)の直観を多少、補強した
ものだったかもしれない。

 
さて、ソクラテスがそう直観していたにもかかわらず、
「論理的に考えれば考えるほど、ものはいくらでもなんとでも
言える」ということを発見した人たち(ソフィスト)が、
この世に確かなものなどない、ということを弁論をもって
表現していたので、激しく違和感をもった。

 
これは俺の勝手な想像だけど、ソクラテス(プラトン)はおそらく
こう思ったにちがいない。

「確かに感覚はときに人をあざむくし、純粋に論理的に考えると
この世は一になってしまうかもしれない。それでもしかし、
確かに変化は存在する、そのことは確かだ。
この世の仕組みは、なるべく感覚に頼らず、論理的に考える
限りで、何か合理的な変化の仕組みが存在することは確か。


これはひとつ、確かなことだ。

そして、もうひとつ確かなことがある。

それは、何かを正しい(真)と思うこと、何かを良い(善)と
思うこと、何かを美しい(美)と思うこと、これは、何をどう
言おうと、確かに存在する。

真、善、美の問題は、抽象概念や、論理をいじくるだけでは
どうとでも相対化されて、絶対に説明できない。また、実際に
この世で感覚する物事でも表現することができない。このことの原理は、
人間の精神、その内を深く探ることで求められなければならない。


これが、もうひとつ。

このふたつが、確かなことのはずだ。そして、このふたつが、
この世を説明する原理のはずだ」、と。

 
ちなみに、現代では、前者は物理学が担当しているが、後者は
いまだに哲学の分野が負っているような気もする。

 
もう後は、以前の内容から推察できるかと思いますが、
ここで考えたのが、イデア説だと、竹田さん(の俺解釈)は
言っていると思うのです。

 
ソクラテスはこのことが何か考えていたが、しかし他人に聞いても
具体例を出すだけで本質が明らかにならない、しかし言葉だと
どうとでも相対化できてしまう、にもかかわらず、確かに
人間の内には、真、善、美の感覚が存在する…

これを、イデアと表現した、のである。

これを神話、ミュートスで表現したのは、当時、いまだ神話的な
世界観が現代では考えられないほど支配的だった時代、その時代的な
限界も考慮して考えるべきだと思う(国家論についても言えると
思うが)。

また、再度記すべき結論として、「この世界が、人間が善と思うことに
よって秩序付けられている面がある」、とソクラテス(プラトン)
が考えていたことだ。

それは確かにその通りで、人間、通常意識しなくとも、何が自分に
とってよいものか悪いものか、常に判別しながら扱っている。
これが「無い」人間など考えられない。世の中のものは、人間が
意識を向ける限り、常になんらかの、自らの欲望にかんする(それが
自覚的であれ無自覚的であれ)「善い」にかんする意味をもって
いる(「善のイデア」が最上位だとされたゆえんである)。

これを、ソクラテス(プラトン)はこんな風に言っている。
これは、人間の魂がこの世を秩序づけるとした、「ヌース」の
考え方を発展させたものだ。

「人間にとって本来考察するに値するものは、そのもの自身について
も、また他の物事についても、ただ、それがどのようにあるのが
もっとも最善かということ、それだけなのである…」

 
さて、どうだろうか。
個人的には、現代人がちょっとやそっと考えても、これほどの
直観にいたれるかどうか、疑問である(俺の基準で考えては
ダメか)。

アリストテレスの項で見るが、彼はイデア説について「存在する
ものを二倍にしさえすれば、この世のものが説明できると
考えただけで、意味がない」のように言っていたそうだ。
しかし、これはピント外れな批判だとわかる。プラトンは別に、
世界の事物や運動の原理としてだけ、これを考えたわけでは決して
ない。

抽象概念についての論理的な考察は確かに重要だが、それだけで
世界の原理は説明できない。この当時、ソクラテス、プラトンが
直観していた問題は、今にも通じる非常に本質的なものだったことが、
竹田さんの解釈からは伝わってくる。

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