≪ギリシャ哲学(7)−ソクラテスについて<その2>−≫
2004年7月11日<その1からつづき>
ソクラテスがとった方法とは、対話(ディアロゴス)であった。
具体的には、さきに紹介したように、街中などで、若者などを
呼び止めて対話をふっかけるのである。
「正義とは何か」…などなど。
で、こんな抽象的な質問の数々に若者はどう答えるか?
現代人でも、答えづらいであろう質問…たとえばこんなものがある。
ここでは、テッタリアからアテナイを訪れている青年、メノンが
ソクラテスの相手となっている。ソクラテスの問いは「徳とは何か?」−である。
メノン「男の徳とは何より国事をよく処理し、友を利して敵を
威圧すること。女の徳は家をよくととのえ、夫に服従すること。
また子供には子供の、自由人には自由人の、召使には召使の
徳があることはいうまでもありません」
この答えに、ソクラテスはこう返す。
ソクラテス「−メノンよ、徳が何であるかについての君の答えは、
まるで蜜蜂がわんさと群れをなしているみたいにいろいろじゃない
か。だけど仮に、いろんな種類の蜜蜂がいるとして、しかし蜜蜂とは
何かと誰かに聞かれたら、君はいろんな蜜蜂における共通して
変わらない点を見つけ出す必要があるのではないかね?」
ソクラテスはこんな感じで、相手の言葉をとりあえず受け入れ、
その矛盾をついて本質へ導くという、自らをして「産婆術」と
呼んだ対話の方法をとっていた。
続いてソクラテスはこう言う。
「君のあげたいろいろの徳についても同じことが言える。(略)
それらの徳はすべて、ある一つの同じ相(すがた(本質的特性))
をもっているはずであって、それがあるからこそ、いずれも徳で
あるということになるのだ。この相(本質的特性)に注目することに
よって、「まさに徳であるところのもの」を質問者に対して明らかに
するのが、答え手としての正しいやり方というべきだろう」
以上はプラトンの「メノン」からの引用を示したものだが、
この引用部分は竹田青嗣著「プラトン入門」から取り出した。
「現代人でも」と言ったが、ソクラテスの問答を見ると、
別になにも現代人と変わってないなあなんて思う。
現代に生きる人なら、この問いに即答できるだろうか?
できるとしたら、相当に考え詰めている人だろうと思う。
少なくとも、勉強中の俺には無理だなあと思う。
こういう対話の例は「プラトン入門」にもたくさんあって、
善とか美とか愛に対する対話は非常に興味深いものが多い。
原著読むのがいちばんだから、いずれ読もうと思う。
有名な、「ソクラテスより賢いものはいない」との神託を受け、
政治家などとの討論をしてみて「無知の知」を得た、その後の
ことかどうかは知らないが、有能な政治家との討論もしていて
これも結構面白い。ソクラテスは、善とか美のことを正しく知る
ことを、何より国をおさめる政治家などに求めたことでも
よく知られている。
さて、では、こんな言い方をするソクラテス自身は、この徳とか
善とかいうものの本質をどう考えていたのか?偉そうに説教言う
くらいなら、知ってたんだろうか?
善とか美に対して、具体的事例をあげることでは答えにならない
ことは明らかである。そこで、ソクラテスは「想起説」をとった。
(といっても、どこからプラトンの「イデア説」の布石になるのか
は分からないが)
これについては、プラトンの紹介のところでくわしく見たい。
簡単にいえば、「人間は、生まれてくる前に、天上において
善そのもの、真そのもの、美そのものを見ている。だからこそ
この地上世界でただしく真、善、美を判別できるのである」
という考え方だ。
なんじゃこら、ただの宗教?
まあ、そう聞こえてしまうのが普通かも。
ただ俺は竹田さんのプラトン評をいまのところ信用しているので、
この言い方の本質は、単なる宗教的説明ではないと思っている。
最後に、ソクラテスの最期についても、けっこう有名な話が
あるので紹介しておこうと思う。
ソクラテスは、「魂の不死」を信じていた。また、「真に知を
求めるものは、死を厭わずむしろそれを願っている」とまで言った。
なぜかといえば、「善そのもの」「真そのもの」「美そのもの」
といった概念は確かにあるが、人間は生きている限りそれに触れる
ことはできない。生きている限り、魂は肉体的な欲望にけがされて
いるからである。それら「存在そのもの」に触れるためには、
魂を肉体から分離して、魂を純粋な形で存在させたほうがよいのだ、と(ちなみに魂の不死に関しても、彼なりの論証がある)。
こんな考え方をしていたソクラテスは、「青年に有害な影響を与え、
国家の認める神々を認めず別の新しいダイモンの類を祭るがゆえに」
という理由から(実際はソクラテスをうとましく思うものの
謀略だったらしいが)、裁判で死刑が決定したときも、
死を恐れることなく、自ら毒杯をあおいで死に至った。
クリトンというものが脱獄計画を練って伝えても、逆にここで死ぬ
ことが正しいのだと説得してしまい、ホメロスやヘシオドスと
対話できることが楽しみだ、と言って、希望を胸に死んでいった
そうである。
ともあれ、ソフィストたちが言語によってあらゆる価値を相対化
しようとしたとき、いや、善なるもの、真なるものは確かに存在する、
と、人間にとって大事なものの確かな存在を主張したソクラテスは
偉大な思想家、哲学のビッグネームにあたう人であったと言う外ない
と思う。
余談だけど、個人的に、「饗宴」でのディオティマとソクラテスの対話は
恋愛論として非常に面白いと思う。「プラトン入門」にもあるが
原著も読んでみたい。
ソクラテスがとった方法とは、対話(ディアロゴス)であった。
具体的には、さきに紹介したように、街中などで、若者などを
呼び止めて対話をふっかけるのである。
「正義とは何か」…などなど。
で、こんな抽象的な質問の数々に若者はどう答えるか?
現代人でも、答えづらいであろう質問…たとえばこんなものがある。
ここでは、テッタリアからアテナイを訪れている青年、メノンが
ソクラテスの相手となっている。ソクラテスの問いは「徳とは何か?」−である。
メノン「男の徳とは何より国事をよく処理し、友を利して敵を
威圧すること。女の徳は家をよくととのえ、夫に服従すること。
また子供には子供の、自由人には自由人の、召使には召使の
徳があることはいうまでもありません」
この答えに、ソクラテスはこう返す。
ソクラテス「−メノンよ、徳が何であるかについての君の答えは、
まるで蜜蜂がわんさと群れをなしているみたいにいろいろじゃない
か。だけど仮に、いろんな種類の蜜蜂がいるとして、しかし蜜蜂とは
何かと誰かに聞かれたら、君はいろんな蜜蜂における共通して
変わらない点を見つけ出す必要があるのではないかね?」
ソクラテスはこんな感じで、相手の言葉をとりあえず受け入れ、
その矛盾をついて本質へ導くという、自らをして「産婆術」と
呼んだ対話の方法をとっていた。
続いてソクラテスはこう言う。
「君のあげたいろいろの徳についても同じことが言える。(略)
それらの徳はすべて、ある一つの同じ相(すがた(本質的特性))
をもっているはずであって、それがあるからこそ、いずれも徳で
あるということになるのだ。この相(本質的特性)に注目することに
よって、「まさに徳であるところのもの」を質問者に対して明らかに
するのが、答え手としての正しいやり方というべきだろう」
以上はプラトンの「メノン」からの引用を示したものだが、
この引用部分は竹田青嗣著「プラトン入門」から取り出した。
「現代人でも」と言ったが、ソクラテスの問答を見ると、
別になにも現代人と変わってないなあなんて思う。
現代に生きる人なら、この問いに即答できるだろうか?
できるとしたら、相当に考え詰めている人だろうと思う。
少なくとも、勉強中の俺には無理だなあと思う。
こういう対話の例は「プラトン入門」にもたくさんあって、
善とか美とか愛に対する対話は非常に興味深いものが多い。
原著読むのがいちばんだから、いずれ読もうと思う。
有名な、「ソクラテスより賢いものはいない」との神託を受け、
政治家などとの討論をしてみて「無知の知」を得た、その後の
ことかどうかは知らないが、有能な政治家との討論もしていて
これも結構面白い。ソクラテスは、善とか美のことを正しく知る
ことを、何より国をおさめる政治家などに求めたことでも
よく知られている。
さて、では、こんな言い方をするソクラテス自身は、この徳とか
善とかいうものの本質をどう考えていたのか?偉そうに説教言う
くらいなら、知ってたんだろうか?
善とか美に対して、具体的事例をあげることでは答えにならない
ことは明らかである。そこで、ソクラテスは「想起説」をとった。
(といっても、どこからプラトンの「イデア説」の布石になるのか
は分からないが)
これについては、プラトンの紹介のところでくわしく見たい。
簡単にいえば、「人間は、生まれてくる前に、天上において
善そのもの、真そのもの、美そのものを見ている。だからこそ
この地上世界でただしく真、善、美を判別できるのである」
という考え方だ。
なんじゃこら、ただの宗教?
まあ、そう聞こえてしまうのが普通かも。
ただ俺は竹田さんのプラトン評をいまのところ信用しているので、
この言い方の本質は、単なる宗教的説明ではないと思っている。
最後に、ソクラテスの最期についても、けっこう有名な話が
あるので紹介しておこうと思う。
ソクラテスは、「魂の不死」を信じていた。また、「真に知を
求めるものは、死を厭わずむしろそれを願っている」とまで言った。
なぜかといえば、「善そのもの」「真そのもの」「美そのもの」
といった概念は確かにあるが、人間は生きている限りそれに触れる
ことはできない。生きている限り、魂は肉体的な欲望にけがされて
いるからである。それら「存在そのもの」に触れるためには、
魂を肉体から分離して、魂を純粋な形で存在させたほうがよいのだ、と(ちなみに魂の不死に関しても、彼なりの論証がある)。
こんな考え方をしていたソクラテスは、「青年に有害な影響を与え、
国家の認める神々を認めず別の新しいダイモンの類を祭るがゆえに」
という理由から(実際はソクラテスをうとましく思うものの
謀略だったらしいが)、裁判で死刑が決定したときも、
死を恐れることなく、自ら毒杯をあおいで死に至った。
クリトンというものが脱獄計画を練って伝えても、逆にここで死ぬ
ことが正しいのだと説得してしまい、ホメロスやヘシオドスと
対話できることが楽しみだ、と言って、希望を胸に死んでいった
そうである。
ともあれ、ソフィストたちが言語によってあらゆる価値を相対化
しようとしたとき、いや、善なるもの、真なるものは確かに存在する、
と、人間にとって大事なものの確かな存在を主張したソクラテスは
偉大な思想家、哲学のビッグネームにあたう人であったと言う外ない
と思う。
余談だけど、個人的に、「饗宴」でのディオティマとソクラテスの対話は
恋愛論として非常に面白いと思う。「プラトン入門」にもあるが
原著も読んでみたい。
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