また、(5)で見受けられる説明において重要なこととして
もうひとつ、彼らの世界説明は、ちゃんと現実世界の観察を
もとにしている、ということがあると思う。

彼らも、今の電子顕微鏡や精緻な研究結果などが見られれば
今の物理学とそう変わらない結論にいたったであろう。
彼らの説明が、技術の発展により、より細かくなったもの、
つまり、もと哲学の一分野であった自然科学が独立したものが、
物理学と言えるのだと思う。

余談ですた。ソフィストの説明にはいります。

このソフィストというのは個人名ではなくて、民主政治家ペリクレスが
おさめていた、アテネの黄金時代に、人々に教養を伝えまわっていた
弁論に長けた人たちのことを総称してこう呼ぶ。

彼らの知識は、生活の心得、言葉の意味、自己鍛錬の方法から、
世界や歴史の知識、幾何学、天文学などなど、多岐にわたった。

哲学というのは、あらゆる知識を総動員して世界説明や
人間の生を説明しようとする学問という側面もあると思うので、
これらはまとめて哲学の知識になるのかもしれない。

しかし、なぜソフィストと総称し個人名を出さないのか、というと
これは通例にしたがっているというのもあるだろうけど、それよりも
その当時、その名称に総称される人たちが展開した弁論術の特徴が
一様であったため、それが適切なのだと思われる。どういった特徴の
弁論術かというと、例えばこんなものがある。

「君は父親を知っている」
「では、いまカーテンの後ろにいるのは誰かわかるか?」
「わからないだろう」
「じつは、カーテンの後ろにいるのは君の父親だ」
「だから、君は父親を知らない」

一瞬アレ?と思うが、そういうふうにも取れるかなあ、なんて
ちょっと思ってしまう。トンチみたいだ。いわゆる、詭弁である。
「わかる」「知る」という言葉が、ひとつでいくつもの意味を
もつことを利用してこんなことをするわけであるが、当時のアテネ
では、こういった、黒を白といいくるめる弁論術が流行っていた。
ソフィスト達がこうした詭弁を披露すると、観客から拍手喝さいが
送られたという。今からするとヘンな光景だ。

彼らは言葉の「どうとでも言える」性質に着目し、善と悪、
美と醜、真と偽、といったものは、言い方次第でどちらも論証できる
ということを知り、善悪の区別など本来はなく、言葉によって
どうとでも言えるのだから、弁論術を覚えることで、実生活において
それを利用すべきであると主張したらしい。
(それで拍手が送られたのかも)

もちろん、これはソフィストたちの主な特徴の一つではあるけど、
個々で考え方は違う。その中から、「はじめての哲学史」で紹介されている
プロタゴラスとゴルギアスを紹介します。

プロタゴラス(B.C.500〜B.C.430)は、「万物の尺度は人間である」
と言ったソフィスト。けっこう有名な言葉かも。

これについては今でも十分理解できる主張で、例えば、冷たい
とか暖かいという感覚は、水とかお湯そのものにあるわけでは
なくて、感じる人間側にあるという主張だ。

それは確かにそうで、仮に400度とかに普通に耐えられる
生物とかがいたなら、90度のお湯だって水のように感じるかも
しれない。

加えて彼は、「神々については、…私は知りえない」と、神の
存在…というより、人間が神を認識できるか否かについて
否だと主張した。

彼の主張は、人間が感じる万物の変化をすべてだとした
ヘラクレイトスの主張を、さらにつきつめたものだと言える。
そして、彼の他のソフィストたちも、基本的にこの考え方を
ベースにしているという。

次はゴルギアス(B.C.483〜B.C.376)。彼は、世界には「何もない」
「仮にあっても人間には認識できない」「認識できたとしても
それは言うことができないし、他人に伝えることはできない」と
いうことを「論証」しようとした。

まあ、ちょっと聞くだけでヘンな主張なのだけど、その論証には
一分の理があるようには思える。

まず、ものの存在じたいが、人間の意識なしにありえないこと
(これは俺の考えだけど、例えば、寝ている間は夢をみなければ、
何もないのと同じではないか。記憶も思考も何もない)。
死んだ後のことを想像してみてもよく分かる。自分の意識なしに
何かは存在しない。だから、実際には「何もない」。

つぎに、存在するものと人間の思考とは必ずしも一致しない
から、存在を認識することはできない。

また、人間は、目の前の状況を正確に言い表すことは
できないということから、伝えることも不可能、だという。
たしかに、目の前の状況を全て言葉に変換するのは不可能だ。

不可知論的というか、懐疑論というか、そんな感じらしい。
これは、概念のみをいじくりまわして、現実に当てはめるから
起こる現象だと思う。ここでも、概念だけが先走りしてしまって
いる。

基本的にソフィストの言論はこんな感じで、言葉によって
相対化できるものは現実にも相対化できるという主張が
多いようだ。一分の理があると言ったのは、そういった
言葉の不思議な性質を利用するとこうなることがわかる、
ということで、別にこの主張に正当性があるということは
ないけどね。

これにたった一人で、真っ向から反対したのが、かの有名な
ソクラテスである。次からは、具体的に一人ずつ哲学者を
とりあげようと思う。

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