タイトルがちょっと長ったらしくなった。
というのもまぁ、このあたりはまとめたかったので…

ここで紹介するのは、ヘラクレイトス、パルメニデス、ゼノンの
3人。

後期イオニア自然学派。その名の通り、アナクシマンドロスや
アナクシメネスの後にミレトスに現れた哲学者による。代表的な
人はヘラクレイトス(B.C.500頃の人)。エペソスの王族であったとか。
まぁ出自はともかく、彼は今度は何を世界の原理として挙げたか
というと、「火」であった。「万物は火の交換物である」
という主張らしい。

これだけ見ると、なんじゃそら、むしろ後退してないか、という
疑問も湧くが、これは、万物を、その構成物よりも、その
万物の構成物を動かすものは何かという視点からきている。

構成物が水であったりト・アペイロンであるのはいいのだが、
それだけでは、万物がたえず変化することを説明できない。
そこで考え出されたのが、木を灰にしたり、それ自体もたえず
揺れ動いたりする火を原理に置く考え方、であったようだ。

また彼の主張にこういうものがある。「同じ河に君は二度踏み入る
ことはできない」。またこうも言う。「私たちは、同じ河に入り込む
のであり、入り込まないのである。私たちは存在するのであり、
存在しないのである」。

これだけ読むと矛盾してるかのようだが、これは万物のたえざる
変化と、人間の認識の同一性との食い違いを示しているのだと思う。

同じ河に入るのだが、そこにあるのは以前と同じ河ではない…
というのは、感覚的にも理解できる。

また彼が主張した原理のうちで重要なものが、「善と悪はひとつだ」
というもの。当時、光と闇や、昼と夜などは、対立する関係に
あると考える見方が主流であった。彼はそれを否定して、
そのような対立は分離できるものではなく、もとは同じものであった
と言い切った。対立による緊張状態が、世界の調和であると考えた
ようだ。

彼の説全体を要約すると、世界は火の運動によってたえず揺れ動いて
いる流動的なものであり、見方によってすがたを変えうる相対的な
原理をもつ、さらに、定量だけ燃え、定量だけ消える、無限に続く
振幅運動だということになるようである。

そして、この定量を維持するはたらきを「ロゴス」と呼んだそうだ
(のちに出てくる「ロゴス中心主義」はここからきているのだね)。

ともあれ、万物の説明を構成物でなく、運動させるものに置いた
のは、ひとつの哲学における発展であった。

さて、エレア学派に話をうつします。

ヘラクレイトスと同時期ごろに、イタリアにあらわれた哲学者、
パルメニデス(B.C.515頃〜B.C.450頃)。エレア学派の祖とされて
いる。

彼が主張した根本命題とは、「あるものはあり、あらぬものはあらぬ」
だったという。

なんのことだろう?(哲学には、それだけ聞くと「なんのことだ?」
と思うような言葉が多い)

これは、哲学上、「存在とは何か?」と最初に問題としたということで
価値があるとされている。だけでなく、当時の哲学界にとっても
けっこう衝撃であったようだ。

従来、世界の原理は水であるとか、空気であるとか言われてきた。
しかし、感覚的にいくらそう思えても、なぜ土ではいけないのか、
なぜ他のものではいけないのか、という疑問はいくらでも立てられる
ことを、パルメニデスは指摘した。そして、そうした感覚に頼る
思考法を、ただの思い込みとして否定したのだ。

ならばどうするか?
そうした感覚的なものに頼らず、誰が考えても、そうならざるを
得ないような考え方をつきつめていくとが肝要と考えたのである。

そして、その根本命題としておかれたのが、
「あるものはあり、あらぬものはあらぬ」だった。
簡単に言うと、「無が存在する」ということはありえない、という
ことだ。考えてみれば当然だけど、確かに、無いものがあるというのは
言うことはできるけど、現実には考えられない。

目の前にあるものは確かに「ある」のであり、客観的事物の存在を
まずは確実に認めようとした、のである。

その上で、運動とか、多とか、空虚などの、感覚による観念を
思い込みによるものとして否定して、ならば何が存在するのかと
言えば、感覚に頼らず真に存在するものは、生成や消滅をしたり
しない、完全無欠なものであるとした。

感覚によって分けられる、多などという観念はないし、確かに「ある」
目の前の事物は存在する。無いものはない。とすれば、世界は
一である、という言い方ができる。これがパルメニデスの主張だ。

けっこう哲学らしくなってきた、ような気もする。ここでパルメニデスが行った概念の整理は、後々の哲学の発展に貢献することになる。

最後。エレア学派の祖、パルメニデスの弟子にゼノンという人がいる。
B.C.450頃に活躍した人だ。

「ゼノンのパラドックス」というので有名な人だけど、
この人はパルメニデスの弟子ということもあって、師の思想
−「存在だけがあり、運動はない」−を論証することに血道をあげた
という。

彼が特に攻撃したのが「数」の原理らしく、それはパルメニデスに
してみれば、数などというものは感覚が分割させているだけで、
実際には一なるものしか存在しないのだから…数が世界の原理である
というピタゴラスは論破しておかなくてはならない。

そこで考え出したのが、「数」などという概念を持ち出すと
出てくる論理矛盾(パラドックス)を示すことによって、論敵を
打ち砕こうという試みであった。例を挙げるなら、有名な
「アキレスと亀」というパラドックスだ。

俊足のアキレスと亀が競争しても、アキレスが亀に追いつくまでの
プロセスが無限分割可能なため、理論的には永遠に追いつけない…
という例のパラドックスである。

こうすることによって、厳密な論理的思考の礎を築いたことは
功績ではあったけれど、しかし他面で、論理矛盾をなんとか説明
づけることが哲学であるかのような、悪しき論理主義の先駆けと
なった面もあったようだ。

実際、概念は原理を説明するために作られたもので、原理が概念に
従うわけではない、ということを忘れてはならない。

また、数などといった抽象概念は、言語、人種、宗教を越えて
普遍的な理解をもたらすことの大きな助けになる。より多くの人々に
通じる考え方を模索する哲学において、抽象概念は是非必要な
ツールである。しかしだからこそ、このゼノンのパラドックスは、
大きな意味を持っていると言える。

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